No.81 黒田長政を支えたのち『大坂の陣』で活躍した智勇の豪将「後藤又兵衛」

対談:平成29年5月23日

司会・構成:土居 善胤


お話:
九州大学基幹教育院人文社会科学部門教授 博士 福田 千鶴氏
聞き手:
西日本シティ銀行 代表取締役頭取 谷川 浩道

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


「後藤又兵衛」略年譜

福岡に縁の深い「後藤又兵衛」

伝・後藤又兵衛基次
(春日神社所蔵:北九州市)

司会

おかげさまで、このシリーズも通巻一〇〇号を迎えました。
今回のテーマは、約四百年前の大坂の陣のヒーロー、後藤又兵衛(ごとうまたベえ)です。
話題の新著『後藤又兵衛』(中公新書)を著(あらわ)された福田先生に、歴史がお好きな谷川頭取から、又兵衛の魅力をうかがっていただきます。

谷川

はじめに、本シリーズをご愛読いただきまして、御礼を申し上げます。
後藤又兵衛といえば、大坂冬の陣、夏の陣での活躍が有名ですね。

福田

後藤又兵衛(永禄三~慶長二十 1560~1615)は、徳川家康(天文十一~元和二 1542~1616)が、全国の大名を動員して攻め寄せた豊臣秀頼(文禄二~慶長二十 1593~1615)の大坂城を支え、真田信繁(幸村)(永禄十~慶長二十 1567~1615)らとともに、果敢に戦った勇将として知られています。
江戸時代から、無比の豪傑として、講談や歌舞伎の人気者でしたが、智勇無双、最後の戦国武将とされる名将です。

  • ※2016年のNHKテレビ大河ドラマ「真田丸」の、後藤又兵衛役は哀川翔(あいかわしょう)さん。真田信繁(幸村)は堺雅人(さかいまさと)さんでした。

谷川

後藤又兵衛は、筑前福岡藩の初代藩主、黒田長政(くろだながまさ)(永禄十一~元和九 1568~1623)を扶(たす)け、その功業に尽くした功臣です。
その英姿は黒田二十四騎図に描かれています。

福田

長政が三十三歳で筑前五十二万石の太守になると、家老として大隈城(おおくまじょう)一万石(一万六千石とも)を与えられます。
又兵衛は後に、長政から離反して藩を出奔。大坂城に入城して豊臣秀頼を支え徳川家康と戦います。

谷川

戦国時代末期の天下の英傑、又兵衛が“福岡人”だったとは愉快です。

又兵衛の生立(おいたち)

司会

では、又兵衛の生立から。

福田

名称は「後藤又兵衛」が通称で、諱(いみな)は基次(もとつぐ)が知られていますが、実は正親(まさちか)が正しいようです。江戸時代になって又兵衛の評判が高まる中で、基次の名が定着しました。
出生は、永禄三年(1560・異説あり)。織田信長(おだのぶなが)(天文三~天正十 1534~1582)が、桶狭間(おけはざま)で今川義元(いまがわよしもと)を討ち取って、歴史に登場した年で、戦国末期ですね。父母のことはあまり伝えられていません。生国は播磨(はりま)の国。今の兵庫県の南西部、姫路のあたりです。

谷川

播磨(はりま)は織田と毛利の激突の場で。

福田

戦国時代の末期に、全国制覇を目指した織田信長が、羽柴(のちの豊臣)秀吉を総大将にして、西国の雄、毛利勢と激突したところです。
毛利は元就(もとなり)の孫の輝元(てるもと)を、叔父の吉川元春(きつかわもとはる)
、小早川隆景(こばやかわたかかげ)が支え、周防(すおう)(山口県東南部)、長門(ながと)(山口県西北部)、安芸(あき)(広島県西部)、出雲(いずも)(島根県東部)、石見(いわみ)(島根県西部)の五カ国をおさえ、備前(びぜん)(岡山県南東部)、備中(びっちゅう)(岡山県西部)、備後(びんご)(広島県東部)を勢力圏とした西国の有力戦国大名でした。

如水、長政と又兵衛

谷川

播磨の地元勢にとっては、毛利に付くか、織田に付くか、存亡をかけた選択だったのですね。

福田

毛利側に付こうとする主君の小寺政職(こでらまさもと)を、家老の黒田(官兵衛)孝高(くろだかんべえよしたか)(のちの如水)(天文十五~慶長九年 1546~1604)が織田方にと説得し、ついには孝高が秀吉のブレーンとなります。

  • ※以下は、孝高を晩年の号、「如水(じょすい)」で進めます。

谷川

その如水が、若年の又兵衛を嫡男長政の相手役にと、目をかけたのですね。

福田

又兵衛を子飼いとして育て、行く行くは八歳下の長政の補佐役にと考えていたのでしょう。
ところが、又兵衛の伯父の藤岡九兵衛が、如水に謀反(むほん)して追放され、又兵衛も一緒に黒田家を退去するのです。

谷川

その又兵衛が後に帰参します。

福田

父如水とは別に秀吉から取り立てられた長政が呼び戻したのです。

谷川

長政の初陣(ういじん)は。

福田

如水が、羽柴秀吉の毛利攻めに従った天正十年(1582)です。
長政は、翌十一年の秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)が戦った賤ヶ岳(しずがたけ)合戦で首級を挙(あ)げ、秀吉から四百五十石を与えられます。

司会

戦国レースの勝者となる長政も、可愛いスタートだったのですね。

谷川

如水が、秀吉の四国・九州平定に尽くした功で、天正十五年(1587)豊前の京都(みやこ)、築城(ついき)、仲津(なかつ)、上毛(こうげ)、下毛(しもげ)、宇佐(うさ)の六郡十二万五千石を与えられて、仲津(中津)に入国。反抗する地侍の鎮圧を進め、要害に籠(こも)る宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)を攻めます。
如水は肥後一揆(いっき)の平定支援を命じられ、留守中事を構えるなと、長政に厳命して出陣していました。

司会

ここで「又兵衛話」その①です。しかし、血気にはやる若殿長政は我慢できない。独断で宇都宮を攻め、後年まで歯ぎしりして悔しがった惨敗の屈辱をあびます。
激戦で谷から転落し、重傷を負った又兵衛がやっと帰陣し、長政にすぐに夜襲をと進言しました。両軍疲労困憊(こんぱい)の今が好機と。勝利におごり、全員まどろんでいた敵軍は周章狼狽(しゅうしょうろうばい)で、快勝したそうです。
無勢の鎮房は次第に劣勢となり和議に。そして謀殺される。後味の悪い決着でしたね。

  • ※この事件を背景にした、大仏次郎(おさらぎじろう)の小説、『乞食大将後藤又兵衛』(徳間文庫)(朝日新聞に前大戦末の年の昭和二十年三月六日まで掲載)がある。

福田

天正十七年(1589)に、隠居した如水は、家督を二十一歳の長政に譲ります。如水は、まだ四十四歳。隠居後も秀吉のそばで天下統一に活躍します。
一方、若い主君の長政の陰には、智謀と豪勇の又兵衛がいて、長政を常に支えました。
長政は秀吉が起こした文禄(ぶんろく)の役(えき)(文禄元1592)、慶長(けいちょう)の役(えき)(慶長二~三 1597~1598)に、加藤清正(永禄五~慶長十六 1562~1611)、小西行長(ゆきなが)(?~慶長五 ?~1600)らとともに出陣。又兵衛は難攻不落と言われた晋州(しんしゅう)城攻撃に一番乗りの手柄(てがら)を立てて、見事な武者ぶりと加藤清正を感嘆させています。

司会

「又兵衛話」その②です。
この役(えき)で、長政が敵の猛将と一騎打ちとなり、組み合ったまま堤防下の深い池に落ち、浮き出ない。だが、又兵衛は平然として手を出さない。敵将を仕留め、やっと浮き上がった長政が「なぜ、手助けしない」と立腹すると、又兵衛は「あれしきの敵に討たれる我が殿ではござるまい」と、平然と言ったそう。
「又兵衛話」その③です。
この役で、合流する小早川勢(ぜい)の動向がわからない。長政が又兵衛に偵察の物見(ものみ)を命じると、すぐに戻(もど)ってきて、「ただちに出陣を」と進言。あまりの早さに長政が糾(ただ)すと、「日本の馬の轡(くつわ)が川に流れてきた。小早川勢の先駆(が)けの渡川、間違いなし。遅れまじ。」と。機敏な物見ぶりに、皆が舌をまいた。

関ヶ原の合戦の恩賞で長政が筑前五十二万石の太守に

谷川浩道

谷川

長政が歴史に大きく登場するのは「関ヶ原の合戦(かっせん)(慶長五 1600)です。

福田

豊臣秀吉没後二年の慶長五年(1600)、毛利輝元を総大将に石田三成(いしだみつなり)(永禄三~慶長五 1560~1600)が率いる西軍と、徳川家康が率いる東軍が戦った関ヶ原の合戦で、長政は東軍に加担して奮迅の働きを見せ東軍の勝利に大きく貢献しました。
ですが、この時の長政の一番の功績は、秀吉の妻(ねい)(寧々(ねね)とも)の甥、小早川秀秋(こばやかわひであき)を、東軍に寝返らせて、家康勝利を決定づけたことでしょう。
戦後、家康は長政の手を取って、その功労に感謝し、筑前一国五十二万石を与えるのです。

谷川

こうして、中津城十二万五千石の中大名だった三十三歳の長政が、一躍、筑前五十二万石の大大名へ。すごいジャンプですね。

  • ※前藩主小早川秀秋は、備前、備中、美作五十万石に転封。

実はこの話には余談が……。
家康は筑前、四国、豊前(ぶぜん)をあげ、所望の国はと訊(き)き、長政は筑前を望んだと。その心は、貿易都市博多にあったのでしょうか。

福田

古き弥生の時代から九州北部は中国大陸との交流があり、博多は中世以来国際都市として、中国や朝鮮との往来、シャムやベトナム、南蛮(なんばん)貿易で栄えていました。
四十年後の「鎖国(さこく)令」までは読めませんから、長政は博多で国際貿易を夢みて、筑前を所望したのでしょう。

司会

肥後の虎と恐れられた加藤清正も、南蛮交易に着眼していますね。

福田

清正は、領国経営とは別の才覚がありました。これからの大名は、戦って領地を広げる旧(ふる)いパターンではなく、治水、生産、貿易などで財力を増やす必要があると考えたのでしょう。その眼力があの壮大な熊本城の建築や、後世まで領民に感謝される治水工事にも生かされたのです。長政も同様に時代の先を読む眼力がありましたね。

司会

家康が長政の手を握って……。そのときの「如水話」がありますね。
長政が如水にその次第を報告すると、戦国時代を生きぬいた曲者(くせもの)の如水は、「そのとき、お前の片手はどうしていた」と言ったそう。暗(あん)に片手で家康を刺せたなと。

谷川

天下分け目の西軍と東軍との戦いが長引くと読んで、九州で西軍参加の大名たちを加藤清正(かとうきよまさ)とともに次々に攻略し天下を狙っていた如水ならではの痛言ですね。

福田

如水の天下への野望を語る話として、よく引用される話ですが、何に基づくものなのかわかっていません。

司会

ところで関ヶ原の合戦で又兵衛の活躍は。

福田

そのときの供衆(ともしゅう)筆頭に後藤又兵衛の名があります。
そして、関ヶ原の合戦の前哨戦であった大垣城攻撃で、又兵衛の勇名が伝えられています。
この時、家康に従い会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)の征討に向かっていた長政、藤堂高虎(とうどうたかとら)、田中𠮷政(たなかよしまさ)ほかの五大名は、石田三成の挙兵で、急遽反転。三成のいる大垣城攻撃に向かいます。

司会

「又兵衛話」その④です。
引き返した東軍五将の軍は、あいにくの大雨で氾濫した合渡川(ごうどがわ)(長良川上流の通称)で足止め。濁流を挟んで、三成側の西軍と対峙(たいじ)します。
強硬渡河して戦うか、渡ってくる敵を討つか、五将が討議するが決まらない。高虎が後方に控えている又兵衛に戦功者の意見をと聞いたのです。
又兵衛は憶(おく)することもなく、「爰(ここ)にて御一戦されずば、恐(おそ)れながら各様(かくさま)男(おとこ)成申(なりもうす)まじく候(そうろう)。勝つにも負けるにもかまはずのりこえ、一戦遊(あそば)され、この河を墓所(はかどころ)になさるべく候」と進言。軍議一決となり、五将競って川を渡り、西軍勢を破りました。
そして、又兵衛は一番乗りの軍功を立てました。

谷川

戦後、家康は陪臣の又兵衛ら黒田家の重臣たちにお目見えを許し、ねぎらいの声をかけたそうですが。

福田

後年の大坂の陣の時、家康は、又兵衛を執拗(しつよう)に徳川方へと誘いますが、この時の凛乎(りんこ)たる姿が脳裏にあったかもしれません。

長政のイメージ

谷川

長政が先見の君主であるとうかがいました。これまでは主君ながら真っ先に敵陣に切り込む勇将のイメージでした。

福田

いえ。そのひとつ上の猛将かもしれない(笑)。

司会

その猛将を支えた又兵衛の、大坂の陣での談話が伝えられています。
「又兵衛話」その⑤
後年又兵衛が出奔して、小倉城主の細川忠興と交(か)わした話と言われますが、「筑前と豊前の戦いになれば、どちらが勝つか」と聞かれ、又兵衛は「領国の兵力から貴藩の負け。勝機はただひとつ。先陣を疾駆(しっく)してくる騎馬武者を鉄砲隊が一斉射撃すればいい。その中に、長政はいる」と。
「藩主に離反しながら、主君の勇武を讃えて見事なり」と、細川家臣連が感嘆したそうです。

谷川

戦国武将らしい話。旧主君へのエールだったのでしょう。

一万石(一万六千石とも)の大隈城主に

福田千鶴氏

福田

関ヶ原の合戦(かっせん)は、慶長五年(1600)九月十五日、わずか一日の決戦で、東軍の勝利となりました。
その、二か月半後の、十二月六日。長政は、父如水とともに中津を出て太養院(たいよういん)(今の飯塚市)に一泊。翌、七日に、前領主の小早川秀秋が居城とした名島城(今の福岡市東区)に入ります。

谷川

筑前黒田藩のスタートです。

福田

ですが、名島城は、北は博多湾に面し、西は多々良(たたら)の浜。背後は立花(たちばな)山と、天然の要害ですが、地域が狭く、五十二万石の城下形成には向かない。そして諸国や南蛮と交易する大船を繋ぐ港湾の地形ではない。
そこで博多の西の丘陵地の福崎を選び、地名を黒田氏発祥の地といわれる福岡に変え、翌慶長六年に福岡城建築に着手しました(六年後の慶長十二年に完成)。

谷川

新しい国づくりですね。

福田

まず、その手始めとして、領内への家臣配置と行賞(こうしょう)にあたります。
そこで、又兵衛の功を賞し、栗山利安、母里太兵衛(ぼりたへえ)(毛利友信)、井上之房(ゆきふさ)の三老に準じる家老として、筑前六端(は)城のひとつ、隣国豊前と国境(くにざかい)の嘉麻郡(かまぐん)の大隈(おおくま)城主に任じ、一万石(一万六千石とも)を与えています。

司会

幕府では一万石からは大名なので、大抜擢ですね。

福田

長政の活躍のうしろには、常に又兵衛がいて、功業を支えました。長政は要衝の大隈城を又兵衛に任せて労に報い、さらなる忠節を期待したのでしょう。
この時、長政は三十四歳。又兵衛は四十二歳でした。

  • ※大隈は貝原益軒(寛永七~正徳四 1630~1714)の「筑前國続(しょく)風土記」によれば、東は豊前猪膝(いのひざ)、南は桑野、小石原(こいしわら)に通じ、(中略)小石原道は肥前、肥後、筑後、豊後(ぶんご)へ。また上方(かみがた)への通行路で、人馬の往来はげしくとある。
  • ※「福岡城」は、本丸、二の丸、三の丸を擁する、413、900平方メートル(約十二万五千坪)の広大な地で、藩主の居所である本丸。世子の居所となる二の丸。三の丸東部には重臣たちの屋敷が置かれ、又兵衛の居は約二千坪。三の丸と城外を隔てる濠には上の橋と下の橋がある。天守閣の存在は諸説あり。
  • ※栗山利安(くりやまとしやす) 織田信長に反旗を翻した荒木村重の説得に行って、土牢に幽閉された如水を救出した忠臣。朝倉郡杷木の左右良(まてら)城主、一万五千石(異説あり)。二代藩主忠之を謀反(むほん)の疑いありと幕府に訴えた『黒田騒動』の大膳利章は嫡男。
  • ・本シリーズ九十号『黒田藩三百年物語』に、郷土史家の吉永正春氏と、藩史研究家の藤香会会員籐金之助氏による「黒田騒動」の記があります。
  • ※母里太兵衛(ぼりたへえ) 「もり」とも。槍の名手で、福島正則から「名槍日本号」を飲みとった。 “酒は飲め飲め飲むならば”の筑前今様(黒田節)で知られる。鷹取城主、一万五千石(異説あり)。
  • ※井上之房(いのうえゆきふさ) 如水の取り立てた家老で、黒崎城主、一万五千石(異説あり)。長政の軽薄を直言した硬骨の武将であった。

又兵衛出奔、猛将長政がお家大切に大変身

谷川

長政と又兵衛が次第に険悪な仲に。四百年後の歴史の観覧席にいる福岡人の私たちも、辛いなぁ(笑)。

福田

又兵衛の出奔は、慶長十一年(1606)の六月と推察されます。
大隈城主になって、わずか六年後。主君長政を見限って、家族や一族郎党とともに隣国細川藩の豊前に出奔したのです。主君長政も江戸にいて知らなかった。これまで又兵衛を優遇してきた長政の激怒もうなずけますね。

司会

又兵衛さん。どうして?

福田

長政が、筑前の太守になってからは、戦国武将としての生き様を捨て、近世大名へと転身することになります。
天下人の徳川家康や秀忠のみならず、陪臣である幕府の老中たちにも、ひたすら平身低頭の気遣い振りです。
さらに、黒田家存続のためなら武功の家臣を振り捨てて顧(かえり)みなくなる。

谷川

家臣たちには、わが命をささげて悔いのない主君ではなくなったということですか。

福田

戦陣で長政を補佐してきた又兵衛には、その落差が受け入れられない。不愉快な風景だったでしょう。
反対に主君長政の立場からは、近隣諸侯との交流を禁じていた長政の指令に反し、又兵衛が、隣国豊前の細川忠興(ほそかわただおき)や、生国播磨の池田輝政(いけだてるまさ)ら、屈指の大名と交流していることが気にいらない。

谷川

そうして、ついに破綻(はたん)の時が。

福田

又兵衛は、ついに出奔。かねてから、好意をよせていた小倉城主の細川忠興(三十九万石余)は、重臣に饗応させ、大坂まで送らせています。
播磨の大名、池田輝政(五十二万石)も、支援していたと伝えられます。

谷川

天下に知られた名のある家臣を抱えることで、大名の器量が測(はか)られる時代だったのですね。又兵衛は、雄藩諸侯がぜひ自藩に迎えたい英傑でした。

福田

逆に、見限られた長政は器量のない主君と言われたも同然で、又兵衛を許せない。
そうした主従の確執(かくしつ)から、大坂の陣に、天下一の勇将後藤又兵衛が登場するのです。

長政は危機管理の名主だった

谷川

徳川第一の長政にとっては、痛憤極(きわ)まりない思いだったでしょう。

福田

長政は、これからの新しい時代を生き抜くために、戦国武将からの脱皮を図(はか)り、数々の危機を冷静に乗り越えねばなりませんでした。今でいえば、経営感覚に優れ、時代の流れを読み取る卓越したリーダーです。

谷川

長政は勇将であるだけではなかった。危機管理の名手だったのですね。

福田

戦国大名から近世大名へ。長政は時代の変化を読みとり、機敏に対応する危機管理の名手だったと言えるでしょう。又兵衛たち家臣から何を言われようと意に介しない。まずは、お家、黒田家を守ることが大切だったのです。長政のその選択が間違わず、二代忠之に伝承されたから、筑前福岡藩を二百五十年持続させることができたのですね。
その反対の例が関ヶ原の合戦に家康側で奮戦した、安芸(あき)広島藩主(四十九万石)の福島正則(ふくしままさのり)ですね。正則は、城の壊れた石垣を無断で修復したと幕府に咎(とが)められ、幕府が制定した「武家諸法度(ぶけしょはっと)」違反の第一号として、大坂夏の陣の四年後の元和(げんな)五年(1619)、改易(かいえき)(領地没収)されています。
長政は、その現実をまざまざと見て、あらためて戦国から平和の時代への変化を痛感したことでしょう。

  • ※なお、長政没後九年の、寛永九年(1632)、肥後熊本藩五十四万石の藩主加藤忠広(かとうただひろ)(清正の嫡男)も改易されている。

又兵衛の名誉回復、黒田二十四騎図

十八世紀代制作の黒田二十四騎図
(行橋市教育委員会所蔵・提供)

谷川

福岡人として残念なことは、黒田藩の初代藩主長政に尽くした又兵衛の武功や活躍、人間性を語る『筑前版又兵衛ヒストリー』が、藩主への反逆者として抹消され、資料も焼却されて、なにも残っていないことです。

福田

又兵衛が大坂の陣で活躍しなければ、主君長政に叛(そむ)いた逆臣として、悪名を遺(のこ)すだけだったでしょう。
徳川幕府が盤石(ばんじゃく)の体制となって、大坂牢人の奉公禁止も解(と)け、後藤又兵衛や真田信繁の周辺にいた古つわものの回顧談が伝わりはじめます。 将軍お膝(ひざ)元の江戸でも、浪速(なにわ)の大坂でも、又兵衛と信繁は、武士や庶民のヒーローとして蘇(よみがえ)り、講談や芝居で、復活していきました。

谷川

ところで、黒田藩での後藤又兵衛の名誉回復は。

福田

福岡藩の成立を語るときに、無視できない、大きな存在として復活していきました。
又兵衛の死後百二十四年の元文四年(1739)に、黒田藩士原種次が貝原益軒(寛永七~正徳四 1630~1714)の高弟、竹田定直に選出を依頼して、長政二十五歳の時代を想定し、後藤又兵衛を含む、誇りの黒田武士二十四人を選定したのです。
そうして絵師に描かせたのが、初代藩主長政と「黒田二十四騎図」でした。
原種次は、二十四騎の一人、原種良の子孫で、「東照宮十七騎」や「武田家二十四騎図」にヒントを得たのだそうです。
以降黒田武士を象徴する絵として広く流布(るふ)しました。

司会

又兵衛さん、よかった。ほっとしますね。

大坂の陣

司会

いよいよ、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣。十四年前の関ヶ原の合戦に次ぐ、天下決着の大決戦で、又兵衛活躍の大舞台ですね。

福田

攻める徳川家康は、用意周到なしたたかさで、大坂城攻撃に、全国大名を参陣させます。

司会

頼山陽(らいさんよう)(安永九~天保三 1780~1832)の「日本外史」に寄れば、大坂方は家康の高齢(七十五歳・当時は超高齢)を頼みに、決着を先送りにしたと、守将大野治長の言を載せています。
「徳川翁は旦夕(たんせき)(明日も知れぬ)の人なり。明歳(来年)は西は吉にして、東は凶(きょう)なり。旦(しばら)く和を約し以(もっ)て後図(こうと)(今後のこと)をなさん(はかろう)」とあります。治長の期待ははずれましたが、家康は、秀頼を滅した十一カ月後に亡くなっています。家康は長生きレースでもしたたかな勝者でした。

福田

当時の都の京都の人口が、八万人の時代に、徳川方は全国の大名を動員し、約十九万人の大軍勢が、大坂城を囲んだのです。
秀頼方にも、天下に知られた大坂牢人五人衆を筆頭に、約九万六千人の牢人たちが次々に入城し、両軍計二十八万人の大軍勢が大坂冬の陣に結集しました。

  • ※牢人=浪人。牢籠人(ろうろうにん)の略

谷川

「全国大名対誇り高き牢人衆」といった構図の戦いに見えます。
大坂城を囲む大名配置図を見ると、豊臣恩顧の大名ばかり。そして、総がかり。義戦とは程遠い、無残な戦いと言ってよいでしょうか。

福田

牢人五人衆は、まず後藤又兵衛。ついで関ヶ原の合戦で西軍について、信濃で領地を没収された真田昌幸の子、信繁(幸村)、元土佐の戦国大名の長曾我部盛親(ちょうそがべもりちか)、豊前小倉の元城主毛利吉成(勝信とも)の子、勝永、宇喜多秀家の家老でクリスチャンで知られた明石全登(あかしてるずみ)の五人の面々です。
明石全登は、関ヶ原の合戦で勇戦しますが、敗れたあと、かねての知己長政の嘆願で助命され、筑前に一時期、足をとどめています。
そのほかに、講談の岩見重太郎(いわみじゅうたろう)で知られた薄田隼人正兼相(すすきだはやとのかみかねすけ)や、野戦を得意とした塙團右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)など、よく知られた牢人たちがいました。
秀頼側近の武将では、その挙措(きょそ)と武勇の見事さで、敵味方を称賛させた、若き武将、木村重成(きむらしげなり)、大坂方を取り仕切った大野治長(おおのはるなが)がいました。
籠城で懸念される兵糧の米も、大坂方は二十万石を手配し、士気、武器、兵糧もまずは十分の迎撃態勢でした。

司会

十五年前の関ヶ原の合戦は、多くの牢人を生み出す大バトルでしたね。

福田

全国の領知没収が六百万石に及んだとされます。新大名も誕生しましたが、新規取立てにもれた牢人たちが、秀頼の大坂城へ駆け付けたのです。
硬骨(こうこつ)の牢人達にとっては、平和な時代に移り行く中で時代に抗(あらが)い、面目を保持する最後のチャンスでもありました。特に戦国の時代を終わらせようとする徳川幕府に対して、戦国武将たちが反旗を翻(ひるがえ)したのです。だからこそ、絶好の散り場所として牢人たちが全国の大名軍に引け目のないパワーを存分に発揮できたのですね。

威風堂々の大坂城入城 大坂勝利を信じて

谷川

又兵衛の大坂城入城は、大名並(な)みの見事さだったと言われます。

福田

騎馬武者から雑兵(ぞうひょう)まで六千人の兵を従え、十二万石(百石当たり五人動員として)の大名なみの陣容で、威風堂々の入城でした。
真田信繁、長曾我部盛親、明石全登、毛利勝永らの入城も、それぞれの見事さだったと伝わります。その様を城の天守から見下ろしていた、秀頼や、その生母淀(浅井茶々、淀殿、淀君とも)には、さぞ、頼もしい風景だったでしょう。

谷川

又兵衛は出奔して八年。浪々の身でよくその偉容が……?

福田

西国大名の陰の支援や、息のかかった関ヶ原牢人たち、さらに秀頼側の配慮もあったでしょう。
身を寄せていた播磨の鋳物師(いもじ)の芥田(けた)家では、門立(たどた)ちに、盛大な祝宴を催しています。この時、すでに、中国諸侯から三千の兵を借りての出陣だったと。

司会

という事は、西国大名の中には、表向きは徳川になびきながら、両天秤(りょうてんびん)の大名たちがいたのですね。

福田

そう考えざるを得ません。又兵衛の知行(ちぎょう)は多くても一万六千石です。これらの支援のもと、又兵衛は、堂々と大坂城へ入城し、秀頼から盃を頂いて、家康勢と対峙する天下晴れての大勝負に挑むのです。

谷川

大坂城に駆(か)け付けた牢人が約十万人もいた。これは、驚きです。

福田

一方の、徳川方は、天下の大名を総動員して十九万人。こちらは支援が無尽蔵です。

谷川

態勢負けの感じですが、大坂支援に駆けつけた牢人たちは、勝つつもりでいたのでしょうか。

福田

結果を知っている現代人には、信じられないでしょうが、牢人衆は、勝つと信じていたと思いますね。精神力では徳川方に決して劣らない。だから勇敢に戦ったのです。
対する大名諸侯は戦う理由がない。大坂方の勇戦に比して、無気力な戦いぶりでした。

大坂冬の陣配陣図(国史大辞典より)

江戸にいた西国大名たち

谷川

その頃、大名たちの動向は。

福田

長政ら西国の大名たちは、幕府に江戸城の石垣補修を命じられ、家臣とともに江戸に集められていました。

  • ※東国諸藩は、家康の六男忠輝の居城、越後高田城(新潟県上越市)の普請に動員されていた。

家康の意を体した幕府は、西国の大名たちを集め、徳川に忠誠を誓う起請文を提出させ、金縛りにした上で、直ちに帰国し、軍勢を引き連れて大坂城攻撃に向かえと指示します。

谷川

だから、豊臣秀吉恩顧の大名たちも徳川体制に組み込まれ、大坂城の豊臣秀頼救援に駆け付ける大名が一人もいなかったのですね。

福田

片桐且元(かたぎりかつもと)や、その後を継いだ大野治長等、大坂方の執行陣は、豊臣恩顧の大名を確保する時期を逸しました。

谷川

そして、すべてが後手(ごて)後手に。その上、指揮系統が揺らいだことが、秀頼の英明をそこなう結果となった。

福田

反面、家康は、大坂城中に間者(かんじゃ)(スパイ)を送り込み、したたかな謀略網をしき、最後の決戦に挑む秀頼の出陣まで阻止したと言われています。

谷川

家康は大坂の陣の開戦前に、すでに勝者だったのですね。

家康が是非、招きたかった又兵衛と信繁

福田

その家康が、大坂攻略で、是非自陣に誘(さそ)いたい人物がいました。後藤又兵衛と真田信繁です。しかし、二人は家康のオファーに応じませんでした。

谷川

あっぱれの戦国武将です。

福田

又兵衛の嫡男左門の話も伝えられています。堺にいた長男左門は、毛利家に預けられていました。
それに目をつけた幕閣が、左門を大坂へ寄びよせ、父子を大名に取り立てる条件で、又兵衛を徳川方に寝返らそうと画策したのです。
ところが、父に存分の働きをと願った左門は、見張り番を斬りつけ、自殺してこの話が消えました。いかに徳川方が又兵衛を重要人物視していたかがわかります。

あの、加藤清正がいれば

司会

秀頼方の痛恨は、加藤清正がいないことだったでしょうね。

福田

大坂冬の陣の、三年前の慶長十六年三月(1611)、京都二条城で家康・秀頼の会見が実現しています。
加藤清正と浅野幸長の尽力で実現し、会見は無事に終わりました。
次第を注視していた秀吉恩顧の大名たちは、秀頼、家康の和解として、安堵したことでした。
残念なことは、その会見の三ヵ月後、清正が急死するのです。不穏な説を生みましたが、死因は不明です。(後に浅野幸長も死亡)

谷川

もし、清正が健在でしたら?

福田

家康は慎重に行動せざるをえなかったでしょう。さて、どうなっていたでしょうか。

谷川

またひとつ、日本歴史の大きなIFですね。

福田

二条城会見は、表面的には円満に終った会見でしたが、実は深刻な事態を生じさせます。
久々に会った秀頼の、堂々とした雄姿に圧倒された家康が、わが目の黒いうちに秀頼を滅ぼさねばと、打倒豊臣の決意を固めたのです。
ちょうど再建復興した方広寺大仏殿の釣鐘(つりがね)の鐘銘に、「国家安康」・「君臣豊楽」の文字があり、これは、家康を分断して呪詛(じゅそ)し、豊臣の繁栄を願ったものだと、無茶な難癖(なんくせ)をつけ、秀頼打倒の大坂の陣を起こすのです。

大坂冬の陣で、江戸に軟禁された豊臣恩顧の三大名

司会

大坂の陣は、全国大名の信義を試す場でもありましたね。

谷川

長政は秀頼を見捨てた豊臣恩顧の大名の一人で……。

福田

大坂冬の陣に、豊臣恩顧の福島正則、黒田長政、加藤嘉明の三大名に、軍勢は参加させるものの、本人は参加させず、江戸在住を命じています。
秀頼攻めに参加させるのは忍びないからと言われますが、彼等が離反すれば、諸大名を揺(ゆ)るがせかねない。その懸念で、三大名を江戸に軟禁したのです。

谷川

そうした、したたかな徳川方に対し、大坂方は。

福田

秀頼が秀吉ゆかりの大名たちに、支援の依頼状を出しています。しかし、豊臣恩顧の大名たちは、前田、浅野、池田を筆頭に、みな世代交代をしており、家康の顔色をうかがう大名ばかり。頼みの島津からは、丁寧に返却される。
秀吉の恩義に報いる大名は、表向きには一人もいなかったのです。

谷川

まさに“桐一葉落ちて天下の秋を知る”です。

  • ※桐は豊臣の紋章。

又兵衛は強かった

司会

そして、いよいよ大坂の陣。後藤又兵衛基次の真価を発揮する戦いですね。

福田

大坂城は、秀吉の威信を象徴する名城で、本丸、二の丸、三の丸を囲み、町域を含んだ城の周囲にめぐらした総構え(囲い)は、三里八丁、約12.653キロの防衛線です。
そして、総構えの外に、戦略的防塞として、真田信繁が「真田丸(さなだまる)」を構えました。ここは又兵衛も注目し、砦(とりで)用の資材を運んでいましたが、信繁にゆずりました。

―「大坂冬の陣」―

司会

いよいよ大坂冬の陣ですね。

福田

慶長十九年十一月十九日の未明、徳川方の奇襲で冬の陣の幕が切って落とされました。
なんと、寄せ手に家康麾下(きか)の井伊直孝や伊達政宗の名はあるものの、主力は、浅野、蜂須賀、前田、池田勢といずれも秀吉恩顧の大名たちで、彼等が城外の野田、福島に構えていた豊臣勢を攻め、城内に追い詰めたのです。

谷川

まさに、「戦国武将の士道地に堕(お)ちたり」で、唖然(あぜん)とします。

福田

この時、今福では、押し寄せた上杉、佐竹軍に木村重成が果敢に応戦。しかし、形勢不利となった重成軍を、又兵衛が救援に駆け付けて佐竹軍を撃退。勇将、又兵衛の名をはせました。
そして、信繁が構えた真田丸で、空堀に押し寄せる敵を、ぎりぎりまで引き寄せ、一斉射撃で見事に撃退。徳川方に想定外の多数の死傷者出させた見事な采配を見せました。
この二つの戦いで大打撃を受けた徳川は戦法を変えます。家康が開戦前にイギリスの戦商から手にいれていた大砲で大坂城を攻撃し、天守の柱に当たりました。その場にいて侍女の圧死を目撃した淀が弱気になり、和議が検討されます。条件は、濠を埋め立て、総構えの破壊で決着します。

  • ※当時の大砲は重量の弾丸を打ち込むだけで、炸裂しない。

秀頼側は自ら城を象徴的に壊せばよいと考えていたのですが、徳川方の策略にはめられ、結果的に大坂城は丸裸の城になってしまいます。ともかく、こうして十二月二十日、一か月の冬の陣は終わったのです。

谷川

そして、半年後には、大坂夏の陣を迎えます。

―「大坂夏の陣」―

福田

慶長二十年の四月二十七日より大坂近郊での野戦がはじまります。大坂夏の陣です。
又兵衛は、家康の本軍が大和路から兵を進めると狙い、大坂城の東南五里の道明寺での迎撃(げいげき)を主張。「敵の先手が山半分を下るところを突けば、十の内、七、八は追い崩れる。敵の不意を狙ってこそ勝機がある。敵の大軍を城の大手まで引き寄せるのは、労のみで効果はない」と主張して平野(ひらの)に陣を張る。
秀頼が大坂への帰陣を伝えたが、又兵衛は「我はここにて討ち死にすべし」と動きませんでした。
そこで秀頼も折れ、又兵衛を先手として、相備えに薄田兼相ら五将、後詰(ごづめ)として二の備えには明石全登ら三将。三の備えは大野治長、真田信繁、渡辺糺(ただす)、毛利勝永らの布陣で、徳川勢と対峙しました。
又兵衛は勇戦しましたが、伊達政宗勢の一斉射撃に遭って重傷となり、秀頼から拝領の太刀で部下に介錯させ、豪勇五十六年の生涯を閉じるのです。時は五月六日昼四つ時分(午前十時ごろ)でした。

谷川

一方の真田信繁は。

福田

翌日の五月七日。早朝からの決戦で茶臼山の本陣を襲い、家康に今一歩のところまで迫りましたが、救援の隊が駆けつけ力尽きて討ち死にしました。家康を震撼させた信繁でした。
五月八日未明。秀頼は、すがりついて自害を止める母に「運命早究(はやきわま)りたり ながらへてわが世の衰えを見玉(みたま)はんより 同じ道に急ぎ後世を楽しみ玉(たま)ふべし 百年の栄花(えいが)も一睡(いっすい)の夢となり果てる習いなり」とさとし、従容(しょうよう)と自決しました。
家臣が用意した燃え草に火をつけ、大坂城は紅蓮(ぐれん)の炎に包まれて、豊臣秀吉の壮大な城も昇天したのです。

レクイエム

福田

小倉城主(熊本移封前)細川忠興は、大坂落城の様子を、三日後の五月十一日の書状で国元に宛てて次のように述べています。
一、大野修理の手弱きことは、是非なき次第である、
二、真田(さなだ)信繁・後藤又兵衛の手柄は共(とも)に古今なき次第(しだい)である、木村重成・明石(あかし)全登も手柄にて六日に討ち死にし、残る頭々の生死はわからない、
と、このように又兵衛らの見事な討ち死にを讃えています。
伊達政宗も、書状で、真田信繁、後藤又兵衛の武勇を讃えています。
又兵衛の叔父、後藤助右衛門が、又兵衛が大坂入城まで寄寓していた播磨の鋳物師芥田助右衛門(すけえもん)へ宛てた書状が残っています。それには、「又兵衛殿も六日に御討死なされ候(そうろう)、然共御手柄(しかれどもおてがら)源平以来有間敷(あるまじく)と申す取り沙汰(ざた)にて御座候(ござそうろう)、日本のおぼえためしなきように承(うけたまわ)り候(そうろう)」と又兵衛の見事な討ち死にが日本歴史上に名を残すものだったと絶讃しています。

谷川

身内だけでなく、敵側の名将からの賛辞。又兵衛さんには、なによりのレクイエムだったでしょう。

又兵衛は「武士道」のルーツ

司会

セオドア・ルーズベルトは、明治三十七、八年の帝政ロシアと戦った日露戦争で、日ロの講和を斡旋してくれた、アメリカ合衆国第二十六代大統領です。
日本軍は果敢に戦い、陸軍の大山巌(おおやまいわお)が奉天大会戦を勝利し、そして海軍の東郷平八郎の率いる日本連合艦隊が、バルチック艦隊を破る決定打がありましたが、戦力を使い果たし、戦争継続に赤信号が出ていました。

谷川

彼の講和提言は、日本にとっては渡りに船のありがたい提言でした。

福田

彼は、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の著書、『武士道』に感激して、日本のため、世界平和のために一肌ぬいでくれたと言われています。

谷川

その彼は、福岡出身の法律家・政治家の金子堅太郎(かねこけんたろう)(博多シリーズ43号)と、ハーバード時代の友人でした。金子の尽力も大きかったと伝えられています。

福田

新渡戸は、『武士道』でプロイセンの王家のひとりが語った「つぶやかずして、耐うることを学べ」の言葉を引用して、これに共鳴する心が日本には、「武士道」として昔からあり、勇の鍛錬と礼の教訓を課す「克己(かっこ)」が、武士の要件であったと述(の)べています。
又兵衛は「軍法は、成人賢人の作法にて、常よく行儀作法をいたし、大将たる人は臣に慈悲深く欲を浅く、士の吟味(ぎんみ)よく召(め)され候(そうらい)て、もし戦い申事候(もうすことそうら)はば、すぐにその備えをもって作り申候(もうしそうろう)がよく御入候(おいりそうろう)」と、語っていたとも伝わります。(長沢聞書)また、又兵衛の書状の中では、「武士は無口がよし」とも述べています。
まさに四百年前の戦国末期を生き抜いた又兵衛の言動は武士道のルーツでした。あらためて、戦国武将後藤又兵衛の真価にふれた思いですね。
さらに、又兵衛は、常に怒ることがなく、槍を肌に静かに押し付けるような言い方をし、平常心を保って顔色を変えることがなかったそうです。

谷川

こうした感化力が、戦国名将又兵衛の器量を物語る証(あか)しですね。

福田

そして、身の丈は六尺(180センチ強・当時の平均は五尺強)以上の偉丈夫で、歴戦の刀傷は十三カ所。そして遺されている鎧具足(よろいぐそく)の美しい事。武将の心ばえを身に着けていた、やわらかな名将でした。

谷川

武士道のルーツが、400年前の福岡人の又兵衛だった。実に愉快です。

司会

本日は、日本歴史のターニングポイントの、大坂の陣に活躍した貴重な後藤又兵衛のお話を、ありがとうございました。(完)

福田千鶴(ふくだちづる)氏 略歴

一九六一年(昭和三六年)、福岡市に生まれる。九州大学大学院文学研究科博士後期課程中途退学。博士(文学、九州大学)。専攻は日本近世史。九州産業大学教授を経て、二〇一四年四月より九州大学基幹教育院教授。
著書『幕藩制的秩序と御家騒動』(校倉書房)、『酒井忠清』(吉川弘文館)、『御家騒動』(中公新書)、『淀殿』(ミネルヴァ書房)、『徳川綱吉』(山川出版社)、『江の生涯』(中公新書)、『豊臣秀頼』(吉川弘文館)ほか。